サウンドアートのトポス 中川真

富澤哲哉

 サウンドアートとは音楽から脱出しながら、音で何かを表現するという矛盾に満ちた作業である。しかも、アートの外側にあることによって成り立っている。美術館や公園などにあるアートとは違い、表現を受け手に押し付けることがない。私たちが聴くことで初めて作品となり、私たちを非日常的な領域に引きずり込むのである。

 第一、二章ではロルフ・ユリウスと鈴木昭男のサウンドアーティストの表現の特性、そこから生まれる知覚の特質を論じ、サウンドアートおよびアーティストに関する本格的な論考の第一歩になっている。

 サウンドアートというジャンルを体系的に捉えるためには、共通する手法や思想を見いだすことが重要であるが、一方で、アーティストの持つ多様性こそが最もおもしろい。サウンドアートを語るとき、音楽からの脱出を試みたケージを基準とするが、多くのサウンドアーティストはケージの影響を受けていない。サウンドアートは、美術の領域から始まって、音楽からも距離を持ち、そしてケージからも距離を置くという絶妙な位置にいる。つまり、サウンドアートは音楽と美術の折衷的な所産なのではなく、異ジャンルと目されているアートが接近し、衝突、融合するという、現代では当たり前となったアート状況の先駆者であり、アート間を架設することによって新たな体験を生み出すジャンルとして、積極的に捉えることができる。
 一方で、音環境を考えるときサウンドスケープという分野がある。サウンドスケープとは音環境の大切さを啓蒙することで、サウンドアートは表現である。サウンドアーティストにとって聴くと言うことは、音響を物理的・生理的に受け止めたり、音の連なりの意味を解釈したりすることではなく、音の肌理に耳を傾けようとすること、音と同化すること、さらに言えば音と共に生きることなのである。それは表層の聴取と呼ばれる行為である。音楽では、背後にある内容や思想を構成的に聞き取るのだが、表層の聴取では音のそのものの表面的な音だけを聴き取らなければならない。このように、サウンドアートは直接的な社会的メッセージを伝達することはなく、知覚の変動を通じて、音環境を考え直させることに主眼がある。サウンドアートは音環境に配慮する作品ではないが、結果として鋭敏な耳の感性を生み、サウンドスケープ形成にフィードバックされるという共振作用が起きる。さらに、意図とは別に密やかに社会性が組み込まれてしまうので、アートと社会の関係について新しい視点を生む可能性がある。
 
また、彼らは人間が自然の一部であることを認めることで、相互排他的な自然と人間の関係を修正しようと試みる共通意識を有する。 それゆえに、地域の風土や文化、地域環境といったものが作品に取り組まれるので場所性が大事になると同時に、その場所の環境に依存しているといえる。しかし、サウンドアーティストは環境に対する配慮を考えて作品を作っているわけではなく、あくまでアート上のニーズに従っている。ともあれ、非支配性という共通意識をアーティストが有するので、サウンドアートはどのパブリックアートと比較しても最も環境に対する配慮度が高い営為となる。

 第三章ではアートフェスティバルに参加したスタッフの日誌である。日誌は日々の状況をこと細かく思いのまま書いていて、準備プロセスを知ることができる。

 第四章では同じフェスティバルより多角的なアートイベントのドキュメンタリーを通して、アートディレクターによるマネジメントの重要性を論じている。アーティストがいてのイベントだが、現場ではアーティストの営為は全体の一部となる。どんな些細な事件であってもアーティストに影響を及ぼしている。その繰り返しで最終的にアートがイベント開催日の日を迎えるのである。つまり、イベントを手がけるディレクターの力量次第で、イベントの成功が左右されるのである。